元偏差値40

誰のためでもない自分のためだけの記録

ADHDはSNSが大好き

 

私は重度のSNS依存者である。

 

InstagramTwitterも、一日中ひっきりなしと行き来を繰り返し、意味のない他人の日常を覗いては、共に喜んだり悲しんだり、異を唱えたり、反発を感じたり、くだらない他人の日常にシンパシーをすり合わせては、貴重な人生の1分1秒を浪費している。

 

私の顔も名前も知らないあなた達には、私の全てを語ることができるだろう。もちろん、匿名ではあるが。

 

自分が孤独であることを受け入れる勇気

 

私は長らく、孤独であった。そんなこと、私のブログを読んでくれる多くの人はわかってくれるはずだ。

 

皆さんの想像と異なるのは、私は容姿としては平均並と自覚、異性からはむしろ、好意的に捉えられることが多い。身嗜みはもちろん、清潔感、身体作りにも拘っているからであろうが、しかし彼女達には、私がこのような卑屈で小心者で、社会に適さない人間であることを知られるのはいささか恥ずかしい。

 

話が逸れたが、ともかく私は友人、それに言ってしまえば異性の関わりはある方である。

 

しかし、孤独なのである。いや、孤独を感じやすい体質なのかもしれない。

 

察しの良い方は気づいたかもしれない。

そう、私の友人の多くはSNSで知り合った友人だ。

 

女性の知り合いの多くは、リアルで会ったことがない。SNS上で私の姿を見て、私の価値観を知って、私と仲良くなりたいと言ってくれるステキな人たちである。

 

もちろん男性の友人もそう、数少ないが、ゲームの繋がりや、リアルでは中学生の同級生などがそれにあたる。

 

しかしだ、どうも現実の人間関係というものは上手くいかない。表面的で、当たり障りのない会話で、上っ面だけ良くて、建前とお世辞が行き交う癖に、裏では陰口、少数派には排他的、他人に厳しく自分に甘い人間が多い…。

 

ああ、なんて社会は生きづらいのだろうか?

どうして私はこうしてまで、日本社会で生きなければいけないのだろうか?

 

答えは簡単だ。

私は日本が大好きで、日本で生きたくて、海外では生きていけないからである。どれだけ日本人が嫌いでも、日本を捨てることなんて出来やしないのだ。

 

本当はもっと自分の本音を言いたい。自分の本当の姿を見てもらいたい。建前じゃなくて、口が悪くたって素直な心をぶちまけて、優しく受け止めて欲しい。

 

そんな現実社会の疲れ、孤独感、全てを悪い方向に解消してくれるのがSNSなのだ。

 

例えばInstagramのストーリー。

これは、非常に中毒性の高い機能である。

 

24時間限定の投稿に、足跡機能と呼ばれる「誰が見たかわかるシステム」が搭載されている。

 

自分の意思を、自分の行動を、見てくれる人がいる。

自分の生きている今この瞬間を、分かち合う人がいる。

 

孤独な人間には、こんなことですら幸福の一つなのだ。

 

ネットの世界は、言わば第二の現実だ。

 

ネットにはネットのコミュニティがあり、人間関係があり、秩序があり、人格があり、生き方がある。

 

直接顔を合わせないからこそ、かえって自然体でいられるし、そうした素の振る舞いを繰り返すことでフォロワーはより精鋭になり、自分を分かち合う他者が確かに存在することを実感する。

まさにこれこそがSNSに夢中になる理由なのだ。

 

要は、SNSを通じてシンパシーを満たしているのである。他者と共感することに喜びを感じてしまうのである。

 

それは、現実世界が大変につまらなく、孤独であり、生きづらいからに他ならない。

 

また、SNSでは「バズる」ということも重要である。

 

自分の練り上げたコンテンツ、驚愕のトピックが、支持、あるいは反論を呼び、多くの人にアクションしてもらえる。

 

他者から見放され、あしらわれてきたADHDにとって、他人の反応を買える、さらには数字で可視化されてしまうのだから、ちっぽけな脳みその報酬系がドパドパ刺激されてしまうのも無理はない。

 

結局このブログだって、見てくれる人がいるからこそ、私は書き続けるし、自分のやりたいようにやった結果、少なくとも反応してくれる人が一定数いる事実は、何よりの喜びである。

 

エッセイであり、読みにくい散文ではあるが、私の文章を読んでくれる人がいるのは嬉しい。

 

いいね、リプ、アクション、他社からの共感、反発は、孤独な現実世界を生きるADHDに取って最高のご褒美であるに違いない。

 

こうして私は今日もSNSを見てしまう。現実世界じゃ満たされない理想や、精神的充足を求めて、今日も画面の向こうのあの人達と同じ時間を共有するのだ。