元偏差値40

誰のためでもない自分のためだけの記録

ブログの更新について

あけましておめでとう。

 

気づいたら本ブログを3ヶ月も放置してしまった。アクセス数を確認したら、今でも月数千ものアクセスがある。

見てくれる"同胞"たちよ、大変申し訳なかった。

 

エネルギーを使うことは確かだが、これからも定期的に私の思想、信条を吐露して行こうと思う。

 

今年もよろしく頼む。

 

 

躁うつと闘え

 

感情の起伏が激しい。

 

途端にやる気が出たり、悲しくなったりする。

 

人生は自分次第、という言葉でどれだけ苦しめられたのだろう。

 

自分の力で立ち上がり、地に足つけて頑張れる人間は尊敬に値する。

 

私は大学受験の失敗から、未だに立ち直れない敗北者だ。

 

努力が報われない、という話ではない。

私は努力の仕方を間違えていたのだ。

 

どれだけ頑張っても、結果を出さなければ意味がない。

 

何かに真剣に取り組むのが怖い。背水の陣で挑んで、失敗したら?誰が手を差し伸べてくれるのであろう?

 

しかし怠惰な人間の人生など、たかが知れている。

 

頑張らなければ、努力しなければ。

 

難関資格を夢見て、人生が変わることを信じて、他者から絶対的な評価を得られることを盲信して、頑張る、頑張る、頑張るさ。

 

気持ちに身体がついてこない。怠けてしまい、スマホを見てしまい、SNSで他者の成功を知り、億万長者を妬み、何もしていないのに心が疲弊する毎日。

 

やる気が出ても、身体が動かない。そんな自分に嫌気がさし、やる気さえも遠のいていく。

 

根本的に環境を変えなければいけない。

 

私は本当に、危機的状況にいるのだろう。

人生に疲れたでござる

 

毎日毎日、何のために生きているんだろう。

幸せって何だろうか、やりたいことって何なんだ。

 

挑戦しろ、行動しろ、周りのせいにするな、環境のせいにするな。

 

もう、そういう重圧自体が脅しなんじゃないの?

 

普通に働いて、普通に生きたい。

普通に結婚して、普通に幸せになりたい。

 

今の日本で、普通に働いて、普通に幸せになれるの?

 

「手取りが低いのは努力が足りないからだ」

「環境を変える努力もしない怠け者だ」

「何回失敗してもまたやればいいだろ」

「言い訳ばかりして動かないからダメなんだ」

 

やるもやらないも、決めてもないのに何でこんなこと言われなきゃいけないんだろうか。

何にも頑張りたくないし、頑張れないよ。

今までどれだけの回数、頑張ろうとした自分を裏切ってきた?

 

周りのせいにするな?周りのせいだろ。

出る杭を打つ、イロモノ扱い、出来損ないには冷たく、自我の強い子供は除け者だ。

 

周りの言うことを聞かないから、上下関係を受け入れないから、社会に馴染めないクズ、無価値、ゴミ。そう言う言葉を、もらい続けてきた。

 

そもそも生まれてきたくて生まれたわけじゃない。

 

気づいたらこの時代のこの国に、人間として生まれて、世間が定義する「幸せ」とやらを追いかけるために、やりたくもない勉強やスポーツを無理強いさせられ、全てに数字をつけて、劣っている劣勢遺伝子であると晒され続けてきた。

 

挑戦する人たちはさ、挑戦できる環境を持ってること自体がアドバンテージなんだよ。

金、能力、人脈、どれかしら元々持っていたか、光るものがあった。

 

本当の底辺にはそんなものはない。見えてる世界がそもそも違うから、あなたたちのお叱りの言葉なんて何一つ刺さらない。

 

そもそも、なぜ挑戦を強いるのだろう。

 

今まで何度も必死にやって、その度に笑われて、嫌な顔をされて、バカにされて、時には暴力も受けてきた。

 

本当の底辺こそ、挑戦が一番嫌なんだよ。もうこれ以上、人間を、この国を嫌いになりたくない。

 

それに失敗者、脱落者に非常に厳しいこの国で、誰がセーフティネットを敷いてくれるの?何かあるとすぐ自己責任、自助の強要、結果を残さない無能は資本主義社会では邪魔でしかないんでしょ?

 

資本主義社会なんだから格差があるのは重々承知だわ、勝つ人がいて、負ける人がいる。それは、そう言う道理だから仕方ないよ。

 

でもさ、ピラミッドの頂点、カーストの上位層の人たちって、天性の負け組がどんな世界か知らないんだよな。

 

貧困の再生産だなんて、無責任に笑ってんだろうな。

 

あいつの家はこうだから、あいつはそう言う人間だから、あいつなんてどうせ。

 

そんな言葉を、友達からも先生からも、上から下まで色んな人から、浴びせられて。

 

親しい人間、恋人、教師、どれだけ多くの人に裏切られてきたのだろう。

 

人間の悪い部分しか見れないよ。本当に陰湿で、残酷で、性悪説は正しいと思う。

 

頑張れる人は、支えてくれる人がいる。何があっても裏切らない、心の友がいる。

だからこそ、頑張れない人の気持ちなんてきっとわからないし、怠けてるだけ、無価値な人間だと思っているのだろう。

 

いつも人から劣っていると評価されてきた。

「かけがえのない自分」「人と比べなくてもいいじゃないか」「自分らしく生きればいい」

 

どうしてそんな、無根拠な自己肯定感を持てると思っているのだろう。

 

人から比べられて、常に「劣」として扱われてきた人間が、どうして自己肯定なんて出来ると思ってんのか。

 

世の中全て競争だ。成績も、運動も、学歴も、年収も、あらゆる事に数字がついて、数字を追いかけて世の中が成立している。

 

数字の取れない人間はクズだ、ゴミだ、無価値で要らない人なんだって、俺は散々味わってきた。直接言われることもあるし、暗に示されることもあるし、理不尽な扱いだってクソほど受けてきた。

 

人間は、酷い生き物だ。それは、格差が広がるほど顕著になっているだろう。

 

一億総中流はとっくに崩壊してるのに、多くの人間がぼんやりとしか意識できていない。

 

確実に広がる格差、富裕層との歪みは必ず社会に負の連鎖を巻き起こすぞ。オレみたいな底辺で、危うい精神状態の奴なんて、日に日に数が増えているからな。

 

インフルエンサー?クソくらえ。キレイごと、御託を並べてアホを釣る。あんなのに乗せられる奴も相当なバカや。

 

毎日毎日、苦痛の再生産。成功者を羨み、自分を恥じて、コンプレックスで心を傷付けながら何の希望もないこの国を生きている。

 

きっとオレは、このまま誰の役にも立てず、誰の記憶にも残らず、いつの間にかこの世から消えているんだろうな。

 

無敵な人は、こういう精神状態から生まれてくるんだろう。

 

ただ唯一、無敵な人とオレの違いと言えば、オレは人の人生を奪いたくないってこと。

 

自分は幸せじゃないからこそ、今を必死に幸せに生きてる奴は、心の底から応援するよ。

羨ましいよ、頑張れ、負けるなって思う。

 

幸せになる権利すらオレにはないから。どこの誰かは知らないけど、挑戦できる環境に感謝して、今を精一杯生きて欲しい。

 

誰にも迷惑をかけずに死にたい。死ぬってことが、常にナチュラルに選択肢の一つにある感覚、わかるかな。あー死にたいなーって、ほんと普通に思う、思うだけなんだけど。

 

まあでも、死ねないよな。死ぬって痛いし、普通に怖いし、家族にも国にも色んな人に迷惑かける。誰にも迷惑かけたくないし、人の幸せを壊したくないから、自殺はできないし犯罪もしない。

 

「死にたいなんて言ってる奴はどうせ死なないからw」って、弱り切った心を煽るから本当に死ぬ人が出てくるんだよ?

 

「死にたい」って、助けて欲しいってメッセージなんだと思う。ストレートに言える人、周りに助けてくれる人、そう言う環境にいる人はそもそも「死にたい」なんて言わないから。

 

死にたいって、口に出す時点で黄色信号渡りかけってところでしょ。実際強いきっかけさえあれば、普通に死ぬと思うよ。安楽死が導入されたら、飛びつく人めちゃくちゃいると思う。

 

毎年2万人も自殺してる人がいる。

 

その人たちだって「死にたい」ってメッセージを発信してた時があるんだよ。それを無視して、「まだ大丈夫だよ」とか「どうせ死なないくせに」とか言っちゃって、本当に死ぬまで追い詰めてどうすんの?死人に口無しなんだから、生きてるうちに精一杯発してるメッセージ、なんで汲み取ってあげないの。

 

まだもクソもねえじゃん、死んだら終わりじゃん。

 

いま、頭のおかしいこの国で、競争社会に負けてしまった、負けざるを得なかった弱者たち。

人生で何のスポットも当てられず、除け者にされ、笑われて、傷つけられて、虐げられて、成功者には到底理解できない巨大な負のエネルギーを持った、爆発寸前の人間核爆弾。

 

勝手に自爆して自殺するか、多くの人を犠牲にする無敵な人になるか。

 

そんな、危険な状況にあると思うこの国は。

 

だから、オレはまだ死ねない。

 

オレは一つだけ、生きてるうちに成し遂げたいことがある。

 

不幸にもこんな時代、こんな国に生まれてきてしまった人。

 

一見すると治安も良く、識字率も高い幸福に溢れている国で、生きづらさを感じ、コンプレックスを背負い、苦痛と不幸の渦に呑み込まれている同胞たち。

 

同じ苦しみを持つオレだからこそ、そんな彼らを救ってやりたい。生きる意味を見つけてやりたい。寄り添って、声を聴いて、底辺には底辺なりの生きる価値を一緒に探したい。

 

彼らが自殺や、殺人に手を染める前に、その危うい心に問いかけて、一緒に涙を流したい。

 

よくがんばった、オレも一緒や。

 

オレたちが求めているのは励ましや自己啓発なんかじゃねえ。

 

同じ境遇に生きるクズ同士、傷を舐め合い、共感する。互いに共通項を見いだせたとき、良かった、1人じゃないって、数少ない幸福を感じるんだよ。

 

死にたいけど、今じゃねえ。

 

オレはまだ誰も救ってない。

 

こんなクソな国の、クソな時代の、クソ人間どもに囲まれて、黙って死ねるか。

 

オレにしかできないことがある、発達障害も、鬱も、誰か1人でもいいから自殺から救ってやりたい。

 

オレが持ってる負のエネルギー、自殺でも、犯罪でもなく、人助けに使ってやる。

 

人間は性悪だから、嫌な部分を本当に見てきたから。その苦しみを共感して、少しでも和らげて、思い留まらせたい。

 

人の為の善、と書いて「偽善」。いいじゃん、「性悪」をまじまじと見せつけられてきたんだ、嘘でも人の役に立ちたいよ。

 

世の中偽善者ばっかだがな、オレほど偽善が似合う人間はいない。

 

頭も心もおかしいと思う。それでも、オレは毎日偽善活動をする。底辺を、クズを、同じ境遇の最下層を救いたい。

 

性悪をさらけ出してきたクソ人間どもより、よっぽど真っ当な志なんだよな。

ADHDは優先順位を感覚で決める

 

こんな深夜に2本も重たい記事を更新してしまった。

 

この記事はサクッとテキトーに書こうと思う。

 

ADHDの特徴として、物事の優先順位を感覚で決めてしまう時があるということ。

 

普通なら、明日は予定があるから早く寝ようとか、今日はここまでにしておこうとか、先にやるべきことをやってしまおうとか思うのだろうか。

 

いや、もちろん私だってそうやって、論理的に考えて、正しい結論、物事の順序を決められる時もある。

 

しかし、そこはADHD

あ、これやりたいな、って思ったら寝る間も惜しんで、やらなきゃいけないタスクも放置してやってしまうのだ。

 

今だってこの3本目の記事、全くの蛇足でしかない。

 

前からわかり切っていたが、私という人間はとことん社会に向いていない。

 

やりたいと思ったことは、たとえ社会的に意義がなくても、自分に得がなくてもやってしまうのだ。

 

好きなことなら夢中になれる、じゃあ好きを仕事にできますか?

 

否、世の中そんなに甘くない。

 

ADHDのダメなところは、人並みの知性が行動を抑制するからこそ、ストレスを溜め込みやすいところにあると思う。

 

そして何より、ブレーキが外れたタイミングで、ここぞとばかりに鬱憤を晴らしてしまう。

 

というか、発達障害なんてみんな持ってるもんだと思っている。

 

やりたくないことは眠くなるしやりたくない、って当たり前じゃないか?

 

思考停止の奴隷が欲しいからって、感受性豊かな自分を持ってる人間に、社会不適合だなんて烙印を押すのはやめろ。

 

そのくせ、個性が大切とか、自分で考えろとか、ああ世の中矛盾しきっている。

 

一つ言えるのは、人間は完璧じゃないし他人に完璧を求めるのはやめろ。

 

社会人がどうとかくだらない、同じ人間じゃねえか。

 

何年生きたって、みんな心は子供なんだよ。遊びたいしダラけたい、なるべく楽をしたい、それが叶わない腹いせに他人にも同じ苦しみを求める社会、なんて醜いのだろうか。

 

ADHDだから、話が逸れがちである。まあ、エッセイなので関係ないか。

 

やりたいことは睡眠を削ってやってしまう癖、なんとかしたいものだ。

 

睡眠ほど大切な自己投資はないというのに…。

 

 

自由競争に蔓延る不正〜ブラック企業は淘汰されろ〜

 

日本社会への不満なんてクソほどある。

私はADHDなので、人一倍不満を溜めやすい。

 

理不尽なことを理不尽であると、受け入れることが性に合わないのだ。

(もっとも、理不尽なことを容易に受け入れることが "大人" であるとか、我慢するのが普通であるとか、そう言った価値観自体が異常ではあると思うが)

 

そう、例えば我が国の素晴らしい文化の一つして、同調圧力があげられる。

 

この素晴らしい価値観は、大多数の行動を模倣し、考え方を支持し、あらゆる理不尽を忍耐することが美徳であるとか、レールから逸れないことが正しいであるとか、出る杭を打つようにあなたの可能性、人格を押し潰してくる。

 

同調圧力の問題は日本のあらゆるところで見受けられるが、今回は労働環境に焦点を当てて自論を述べることにしよう。

 

日本の労働環境は最低最悪

 

見出しで私の結論を明示しておいた。そんなことないよ!、という方は今すぐブラウザバックをお願いしたい。

 

日本の労働環境は知ってのとおり最悪である。

近年こそブラック企業大賞などで悪名高きブラック企業が晒し上げられているが、そんなものは氷山の一角に過ぎないのだ。

 

労働基準法を守る、休みが取れる、残業代が支払われる…そんな当たり前のことができる程度で、ホワイト企業だのもてはやされる日本社会は、本当に異常なのだ。

 

米国では、労働は苦役であり、対価をもらうために行うことだと考えられている。

 

ビジネスはビジネスであり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

 

日本では、否。

 

非常に恐ろしいことに、労働は素晴らしい社会貢献であり、自己実現であり、自己研鑽であり、幸福なことである。このような誤った考えが蔓延しているのだ。

多くの人間がその誤りに気づいており、心の中で異を唱えているにも関わらず、社会人という立場に縛られ、自分を殺し、同調圧力に身を任せてこの考えを支持せざるを得ない。

 

そういう思考の停止したバカが増えるとどうなるか。

抑圧された社会を憎みながらも、他人にそれを強いる心の貧しい人間が出来上がる。本当は自分だって楽をしたいからこそ、他人の当たり前の幸福に厳しく、自分と同じような苦しみを求める。

 

それを労働環境に当てはめてみよう。

 

サービス残業という言葉は知っているだろう。

給料をいただかない労働である。

 

おかしいと思わないか?なぜ働いた対価を貰えないのだろうか?労働は美徳だから?働けるだけで幸せだから?何をどういう根拠で、給与を払わなくて良い、という判断なのだろうか????

 

冷静に考えれば異常だということが分かるだろう。しかし、日本の企業の多くのサラリーマンはサービス残業をしているのだ。

その理由は非常に惨めだ。みんながしてるから、帰れる雰囲気じゃないから、上司の指示だから…。

 

バカ、バカ、バカ。

どいつもこいつもバカばかりだ。

 

一度きりしかない人生、一度しかないことだらけ。

 

今一瞬は一度しか訪れないのに、どうして搾取され続けるんだ???

 

サービス残業を強いられてるバカが、他の人にも同じ苦痛を強いることで新たなバカを生産する。

同調圧力は悲しき負の連鎖でもあるのだ。

 

圧力なんてのは、負の感情でしかないのだ。

 

誰が善意で抑圧するだろう?誰が善意で他者を不幸にするんだ?

 

俺は帰れないんだから、お前らも帰るな。

給与をもらってるんだ、命令は聞いて当たり前だ。

 

そのような誤った価値観が、グルグルと負の感情を乗せて世代間を廻っているのだ。

 

だいたい、何がサービス残業だ。

 

サービス、とは奉仕の精神であり、善意である。つまり、強いられてるサービス残業はサービスではなく、強制労働なのだ。

 

企業は競争に勝ちたい。

何でもいうことを聞く、お金のかからない奴隷が欲しい。

 

ブラック企業が蔓延る根本の原因は、ブラック企業にならないと市場に生き残れない理不尽な不安定な資本主義社会だからである。

 

これは何故こうなった、とかではなく気づいたらこうなっていたのだろう。

 

誰かがズルをして先へ行くから、自分もズルをして、そうして行くうちに、法律を破ったり、給料を払わないことでしか、生き残れないマヌケな企業が増えてきた。

 

今だって、残業代を満額支払う企業の方が少ないだろう。

 

ズルするやつがいるから、自分もズルしなきゃ勝てない。悪い同調圧力は意外なところにも潜んでいるのである。

 

じゃあ労働環境を良くするにはどうすれば良いのだろう

 

答えはシンプルである。

市場の清算をしてしまえばいい。

 

まずは労働基準法の厳罰化。

サービス残業や休日出勤の強要には、法的厳罰を下し、悪質な違反には前科として犯罪歴をつければ良い。私は法律に関してはど素人であるが、刑法の一部に、労働に関する刑罰をもっと組み込むべきだと思う。

 

労働基準法を厳罰化し、ブラック企業が生き残れない環境にしてしまえば、やがて正常な企業が正当に競争できる環境になるだろう。

 

従業員1人の給料も満額支払えない企業なんか潰れてたって構わない。

 

そんな無責任な会社は無くなって当然なのだ。

 

日本は、資本主義社会をより社会主義に近づけるべきだと考えている。

 

完全な社会主義ではなく、限りなく資本主義社会にテコ入れをしてやるのだ。

 

少なくとも、現在の競争環境はとても正常だとは思えない。人間を奴隷のように扱い、法を犯して利益を上げることの、どこが "企業の社会的責任" なのだ。

笑わせるなバカ野郎。

 

そんなブラック企業を、ブラック企業であることが当然許される環境にしているのは他でもない同調圧力なのだ。

 

社畜たちへ

 

もう我慢しなくて良い。みんなで声を上げよう。

 

おかしいことは、おかしいと言える社会になろう。

 

働いた分は、対価がもらえることを当たり前にしよう。

 

サービス残業なんてない、それは強制労働なんだ。

 

主婦の万引きや中年男性の痴漢は大げさなほど批判するのに、どうして損失の大きい悪質なサービス残業やその他労基違反には前科がつかないのだ。

 

給料を払わらない悪質な経営者は法で裁かれるべきだ。

 

従業員が過労死したならば、故意殺人か過失致死として厳罰を下さなくてはいけない。

 

周りの目を見てサービス残業するのはやめろ。

 

しっかり声を上げて給料を要求しよう。

 

それが無理なら、仕事をやめよう。

 

仕事に対する価値観を変えていこうじゃないか。

 

悪い同調圧力で労働者は搾取され続けてきたのだ。それならば、良い同調圧力で労働環境を変えていこう。

 

労働者がいなければ企業は成り立たない。

市場にしがみつくバカな企業が減り、体力のある大企業がその規模を拡大して行くのが理想である。

 

無駄な競争が減って、市場が正常になれば余裕のある大企業から必ず雇用が生まれる。

 

そういった意味では、コロナ禍の現在、テレワークすらできないかわいそうな企業が淘汰されてる現実が嬉しくてたまらない。

 

労働者のこと何か考えず、やれ起業すれば収入は青天井だとか、コストカットでまず人件費を削ろうだとか、そう言った舐め腐った経営者達が苦しんで倒産する現実は喜ばしい。

 

労働者はもっと苦しんでいるのだ。日本の労働環境に、同調圧力に、理不尽に耐えてもがき苦しんで、それを他人に強いるほど心が貧しいのだ。

 

貧富の差が広がっているのは、ブラック企業のせいでもあるのだ。

 

大企業の足を引っ張り、無駄な低価格競争を生み出すから、市場は貧乏に、企業はコストカットに、労働者は劣悪な環境へと悪循環しているのだ。

 

労働環境を良くするためにはブラック企業の淘汰が不可欠だ。

 

労働基準法の厳罰化、労働価値観の変化、そして不要な同調圧力の排除。

 

私は日本社会に影響を与えたい。それは、個人個人が幸せに生きるために必要だと思う影響である。

 

いま私にできることは、こうして叫ぶことだ。

 

1人でも多くの心に刺さり、何かを感じとり、世の中への危機感、不条理を覚えてもらえれば嬉しい限りである。

 

そうした同士が1人、また1人と増えて行くことこそ、世の中の変革に必要なのである。

 

ADHDはSNSが大好き

 

私は重度のSNS依存者である。

 

InstagramTwitterも、一日中ひっきりなしと行き来を繰り返し、意味のない他人の日常を覗いては、共に喜んだり悲しんだり、異を唱えたり、反発を感じたり、くだらない他人の日常にシンパシーをすり合わせては、貴重な人生の1分1秒を浪費している。

 

私の顔も名前も知らないあなた達には、私の全てを語ることができるだろう。もちろん、匿名ではあるが。

 

自分が孤独であることを受け入れる勇気

 

私は長らく、孤独であった。そんなこと、私のブログを読んでくれる多くの人はわかってくれるはずだ。

 

皆さんの想像と異なるのは、私は容姿としては平均並と自覚、異性からはむしろ、好意的に捉えられることが多い。身嗜みはもちろん、清潔感、身体作りにも拘っているからであろうが、しかし彼女達には、私がこのような卑屈で小心者で、社会に適さない人間であることを知られるのはいささか恥ずかしい。

 

話が逸れたが、ともかく私は友人、それに言ってしまえば異性の関わりはある方である。

 

しかし、孤独なのである。いや、孤独を感じやすい体質なのかもしれない。

 

察しの良い方は気づいたかもしれない。

そう、私の友人の多くはSNSで知り合った友人だ。

 

女性の知り合いの多くは、リアルで会ったことがない。SNS上で私の姿を見て、私の価値観を知って、私と仲良くなりたいと言ってくれるステキな人たちである。

 

もちろん男性の友人もそう、数少ないが、ゲームの繋がりや、リアルでは中学生の同級生などがそれにあたる。

 

しかしだ、どうも現実の人間関係というものは上手くいかない。表面的で、当たり障りのない会話で、上っ面だけ良くて、建前とお世辞が行き交う癖に、裏では陰口、少数派には排他的、他人に厳しく自分に甘い人間が多い…。

 

ああ、なんて社会は生きづらいのだろうか?

どうして私はこうしてまで、日本社会で生きなければいけないのだろうか?

 

答えは簡単だ。

私は日本が大好きで、日本で生きたくて、海外では生きていけないからである。どれだけ日本人が嫌いでも、日本を捨てることなんて出来やしないのだ。

 

本当はもっと自分の本音を言いたい。自分の本当の姿を見てもらいたい。建前じゃなくて、口が悪くたって素直な心をぶちまけて、優しく受け止めて欲しい。

 

そんな現実社会の疲れ、孤独感、全てを悪い方向に解消してくれるのがSNSなのだ。

 

例えばInstagramのストーリー。

これは、非常に中毒性の高い機能である。

 

24時間限定の投稿に、足跡機能と呼ばれる「誰が見たかわかるシステム」が搭載されている。

 

自分の意思を、自分の行動を、見てくれる人がいる。

自分の生きている今この瞬間を、分かち合う人がいる。

 

孤独な人間には、こんなことですら幸福の一つなのだ。

 

ネットの世界は、言わば第二の現実だ。

 

ネットにはネットのコミュニティがあり、人間関係があり、秩序があり、人格があり、生き方がある。

 

直接顔を合わせないからこそ、かえって自然体でいられるし、そうした素の振る舞いを繰り返すことでフォロワーはより精鋭になり、自分を分かち合う他者が確かに存在することを実感する。

まさにこれこそがSNSに夢中になる理由なのだ。

 

要は、SNSを通じてシンパシーを満たしているのである。他者と共感することに喜びを感じてしまうのである。

 

それは、現実世界が大変につまらなく、孤独であり、生きづらいからに他ならない。

 

また、SNSでは「バズる」ということも重要である。

 

自分の練り上げたコンテンツ、驚愕のトピックが、支持、あるいは反論を呼び、多くの人にアクションしてもらえる。

 

他者から見放され、あしらわれてきたADHDにとって、他人の反応を買える、さらには数字で可視化されてしまうのだから、ちっぽけな脳みその報酬系がドパドパ刺激されてしまうのも無理はない。

 

結局このブログだって、見てくれる人がいるからこそ、私は書き続けるし、自分のやりたいようにやった結果、少なくとも反応してくれる人が一定数いる事実は、何よりの喜びである。

 

エッセイであり、読みにくい散文ではあるが、私の文章を読んでくれる人がいるのは嬉しい。

 

いいね、リプ、アクション、他社からの共感、反発は、孤独な現実世界を生きるADHDに取って最高のご褒美であるに違いない。

 

こうして私は今日もSNSを見てしまう。現実世界じゃ満たされない理想や、精神的充足を求めて、今日も画面の向こうのあの人達と同じ時間を共有するのだ。

 

一度きりの人生

 

私は最近、深く悩んでいた。

 

自分の短い人生を振り返り、どうしようも無い後悔、取り消せない過去、他人に費やした時間…ありとあらゆる解決の出来ないストレスが、私の心を支配する。

 

ブログのアクセス数はどんどん上がり続けている。

 

早くキーボードを打たねば…しかし、何を書けば良いのだろう、と。

 

書きたいことはたくさんある。

言いたいことは山ほどある。

 

実現したい夢、理想の人生、本当にたくさん、何も成し遂げないことが。

 

私はまだ死ぬには早いのだ。私が、私として生まれた以上、私という人間を幸せにする義務があるのだ。

 

私は決心がついた。

 

自分のために生きよう。自分のやりたいことをやろう。

 

このブログはとんだ憂さ晴らし、フラストレーションの発散だ。

 

誰かも見られなくていい、心の毒素をデトックスするために、ひっそりと、私が社会で普通の人であるよう振る舞えるように、自分を慰めるために始めたものだ。

 

良くも悪くも、今や多くの読者がいる(のかもしれない)。

 

アクセス数だけが、常に伸び続けている。

 

私は、一流のブロガーになって不労所得を得ようだとか、そんな夢は見ていない。

 

私という人間を知ってくれる人が一定数いる、それだけ幸福を感じるのだ。

 

寂しい人生、裏切りの連続、人間の本質を僅か20年余りで見抜いてしまった私にとって、顔も名前もわからない人が、私のブログをひっそりと見てくれるというのは、実に嬉しいことなのだ。

 

互いにとってメリットは何もない、しかし私という人間を知ろうと、私のブログを読んでくれる。

 

利害関係のない赤の他人だからこそ、そうした本質的な欲、この人を知りたいという気概が感じられて、私は嬉しいのである。

 

私は自分のために生きる。

もう誰にも縛られない。

 

やりたいことを、やりたいように、たとえ失敗したっていい。

 

一度きりの人生だ、本当にもう、今この時は二度とやってこないのだ。

 

お金なんか稼げなくていい、友人に恵まれなくてもいい。

 

私はただ、自分という人間が存在した証を、この世の中に残していきたい。

 

私は今、たしかにここにいる。

 

このブログを読んでいるあなたたちも、一人の人間である。

 

奇妙な関係ではあるが、動機が何であれ、私のブログを読んでくれる事だけが嬉しい。

 

今日も何処かでお互いに、社会に揉まれ、理不尽に嗚咽しながら必死に生きているだろう。

 

あなたたちに好意的に見られたいとは思っていない。

 

好きか嫌いを決めるのはあなたたちであり、他人の好意をコントロールすることはできないのだ。

 

私は私らしく、本当にやりたいことをやる。

 

そんな私を少しでも応援してくれる人がいれば、嬉しい限りだ。

 

(今後はブログの更新頻度を上げて、別の活動も始めるつもりである。当ブログを起点に情報の発信を行うので随時チェックして欲しい。)

 

以上。(元偏差値40の明大生)